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この人間社会で天使であり続けるには⇒恋・人間関係・心理・子育て

ふたごの魂2

君との出会いは、君が働く美容室。

君は若手のスタイリスト、私は客。

ただそれだけの関係から始まった。

君「こんにちは。担当させて頂きます斉田です。よろしくお願いします。

君の第一印象、実は「げ、若い、ちょっと苦手なタイプかも。女の人がよかったな~…」だった。

君の見た目とか若さとかもあるけど、たぶん大半は私の勝手な偏見。

ただ、そんな思いとは裏腹に、大きな鏡越しに見えた君がただただものすごく眩しかった。

これが君と私の出会い。

この頃の私は、まだ気付いていない。

君と、あんなにも幸せで、楽しくて、あんなにも切なくて、苦しくて、これほどまでに愛しい恋をすることになるなんて。

ふたごの魂

君と出会ったのはたぶん2014年の夏。

 

君は若手の美容師。ヤンチャっ気もあるが、なかなかの好青年。

22歳で授かり婚をして、2人の子どもを育てる27才専業主婦。

 

交わるはずもない2人は、ある日出会い、忘れられないほどの恋をした。

 

君と顔を合わせて会った時間は、1年か2年の間のほんの数日分。

場所は、大体君が働いていた美容室の中。それと、何度かバッタリ会った近所のその辺。

君と会わなくなってから3年以上の月日が経つ。もうすぐ4年だ。

それなのに、、一緒に過ごした時間はたったそれだけなのに、、

今もまだ、君への想いは色褪せることがない。

 

ただ、安心してほしい。

この3年とちょっとの月日を、なかなか忙しく濃い時間を過ごしていた。

君がいない世界で、地に足をしがみつけながら、目の前で起きること1つ1つと向き合い、生きていた。

生きることに夢中になって、君のことを思い出さない時間の方が多いくらいだったよ。

 

それでも、ふとした瞬間に君のことがパッと思い浮かぶんだ。

君のことを思い浮かべることが日課になってしまっているくらい、この3年半、当たり前のように君の存在は私の中にいた。

 

いじめの根源は加害者の心にある

こんにちは。TAZUです😊

 

今日は、久しぶりにニュースを見て怒りが沸々と湧いてきました。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

私は、いじめの問題にはかねてより関心を持っており、過去のブログやTwitterでも、何度か意見を発信させて頂いています。

 

子ども同士のいじめ問題は奥が深く、被害者のケアはもちろんですが、まだまだ成長過程である加害者生徒のケアや揺るぎない指導は、絶対的に必要だと思っています。

 

なぜなら、いじめの問題は、被害者側よりも❛いじめ❜という行為をする加害者側の子どもの心の状態の方が、危険に陥っているからです。

 

 

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いじめを受ける側は、当然ですが傷つきます。

ですが、ある意味では、それは人間として正常な心の動きです。

嫌なことをされれば心が傷つくのは、その子が真っすぐに成長している証。

 

しかし、誰かをいじめて、傷つけて、楽しい、スッキリする、気持ちいいというのは、決して健全とは言えません。

 

そこには、自我が芽生えるからこそ生みだされる、プライドだったり、ストレスだったり、自尊心だったり、不安だったり…

負の感情との葛藤が、多かれ少なかれあるわけです。

 

無垢だった乳幼児期には味わったことのなかった感情との向き合い方が分からい子もいるでしょう。

それなら、誰かが教えてあげなければ、加害者の子どもは、どこにいっても加害者であり続けることになる。

 

救うのは、被害者生徒だけではない。

加害者生徒が、この先加害者であり続けなくてもいいように、教え導くことが、何より大切な教養ではないだろうか?

 

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そしたら何てこと?!(; ・`д・´)

 

教師が教師をいじめて?

なおかつ生徒までも巻き込んでると?

 

いやいやいやいや!!!!!!!!!

先輩教師のみなさん、これは一発「ばかやろう!」じゃないですか?

 

いじめの問題は、決して子どもだけの問題ではありません。

大人になっても、職場内いじめに悩まされている人はたくさんいます。

 

もう一度言います。

被害者側に原因はありません。

加害者側の心が原因です。

 

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このいじめを行なった加害者側の教師たちは、残念ながら子どもの頃にこの教養を受けてこなかった。

これが一番の要因です。

 

もちろん、成人した立派な大人ですから、責任は自分一人で負うことになります。

しかし、この加害者側の教師たちを教養する立場にあった大人たちの責任も、少なからずないとは言えないと思います。

 

被害者教師の方には、傷ついた心をしっかり癒し、ケアをして、ぜひ子ども達に健全な教養を蓄えてあげてほしいと、切に願います。

 

そして、加害者の教師たちには、己の心の弱さと向き合い、自らの教養をしっかり身につけ、自分の人生も、他人の人生も、大切に扱って生きていってほしいと思います。

 

                         TAZU🍀

 

 

 

麹町中校長が教える 子どもが生きる力をつけるために親ができること

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漫画 君たちはどう生きるか

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どんな人生を生きるかは自分で決める②~人生の分岐点~

こんにちは。TAZUです😊

 

今日は前回のどんな人生を生きるかは自分で決めるの続きを綴っていきたいと思います。

 

 

  • 生き方について迷っている方
  • 人生に退屈している方
  • 「生きるって何だろう」と日々悶々としている方

 

ぜひ一読してみてください。

 

そして、何かを思い、何かを考えるきっかけになってもらえたら幸いです(´ー`)

 

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さて、まずは前回ブログのおさらいを少し…

 

結婚して、2人の子どもを生み、専業主婦として家事に育児にと、自他ともに認める平穏なそれなりの生活を送っていた私は、

 

ある思いが突然…いやふつふつと少しずつ少しずつ芽生え始めました。

 

 

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私は、世間一般ではおそらく結婚・出産をしたのは早い方。

 

同世代は、就職して仕事にまい進している中、どこか社会に取り残された感を感じたのも確かでした。

 

ただ、子育ての大変さを目の当たりにしていたので、そんな感情や思いは置いてけぼりにしていました。

 

そして、子どもが乳児から幼児に成長し、少しずつですが手が掛からなくなってきたぐらいの頃でしょうか?

 

いつもと変わらない平日の昼間、洗濯ものを干しながら、心の奥底だけでふつふつと芽生えていたはずの思いが、完全なる自分の声として頭に降りかかったのです。

 

「私の人生、もうほぼ決められたようなものだな」と。

そして、

「本当にこのまま人生終わっていっていいの?」と。

 

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「人生の分岐点」というと、もっと分かりやすいものだと思っていましたが、

 

私の「人生の分岐点」は、まさしくその時でした。

 

ここまで読んで頂いた方の中には、

「単に物足りなくなったんだろう」「刺激が欲しくなったんだろう」

とツッコミを入れたくなる方もいるでしょう。

 

もちろん、当たり前の幸せを感じていなかったわけではありません。

 

そして、それがどれだけ有難いことなのかということも、

私なりにですが分かっていました。

 

当たり前で何てことのない平穏な日々の暮らしに感謝しなければバチが当たる。

当然ですが、そう思っていました。

 

常識的な女性であれば、こう思うのが自然な流れ。

 

でも、でもですよ?

 

それでも、「その一方で…」思うこと、感じることってやっぱりあるんですね。

 

本当に感謝していれば、文句言えないはず?

 

本当にそうでしょうか?

 

平穏な日々を幸せと思わないのは非常識でしょうか?

 

私は、ただヤンチャをしたいわけでもない。

はっちゃけたいわけでもない。

 

ただ、自分の中にある、

やりとげなければならない何かがあって、

成し遂げたい何かがあって、

そのための一歩を踏み出さないで終わる人生は、

想像するだけで違和感だらけでしょうがなかったのです。。

 

                    TAZU

 

 

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どんな人生を生きるかは自分で決める

ご無沙汰しております。TAZUです😊

 

しばらくブログをお休みしておりましたが、またちょこちょこと綴っていきたいと思います。

 

どうぞよろしくお願いいたします<(_ _)>

 

さて、今日のテーマは、

 

『どんな人生を生きるかは自分で決める』

 

です!!!!!!

 

とてもざっくり、良くいえばスケールの大きなテーマですね(;・∀・)

 

みなさんは、自分自身の人生について、じっくり考えたことはありますか?

 

私は…あります!

 

というより、どんな生き方をしていようとも、ずっと頭や心の中で考えていたテーマだったと思います。

 

そして、このスケールの大きなテーマと真正面から向き合い始めたのは、

 

結婚して、子どもを生んで、それなりの真っ当な人生を送っていた時でした。

 

なぜこのタイミングで向き合うようになったのか?

 

それは、順風な生活を送りながらも、自分の心の奥底では、ずっとつっかかっていた何かが、少しずつ少しずつニョキニョキと芽を出し始めたからでしょう。

 

結婚して、子どもを生んで、育てているうちに、ふと気づくのです。

 

「私のこれからの人生、もうほぼ決まったようなものだな」と。

 

そうすると、心の奥底にいたはずの、将来への野望やら希望とやらが、年甲斐もなくうずき始めるのです。

 

これを、人は「ふしだら」とでも呼ぶのだろうか?

 

それとも、「母親失格」とでも呼ぶのだろうか?

 

家族を大切に想う気持ちは変わらずにある。

 

それでも、本当の自分が自分に訴えかけるように問うのです。

 

「このまま人生終わっていっていいのか?」

 

と。。。

 

この続きはまた。。。

 

GoodNight☆彡

いじめの定義はコレだ!

あけましておめでとうございます<(_ _)>TAZUです😊

 

冬休みももうすぐ終わり、新学期が始まります。

 

新学期は、子どもが不登校になりやすい時期です。

長期休み明けで、ただ怠けているだけと大人は思いがちですが、子どもの登校渋りの理由は決して怠けているだけと決めつけるのは危険です。

 

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学校生活では、子どもの世界でも大人と同様かもしくは大人よりも非情な状況が日常的に起こっている可能性もあります。

皆が未成熟な子どもなので、状況が悪化してしまうこともあるということを、先生も親も受け止めなければなりません。

 

それを代表する問題がいじめです。

 

そこで今日のテーマは、いじめの定義について、分かりやすくご紹介していきたいと思います。

※あくまで私の個人的な見解も含まれています。

 

 

文部科学省によるいじめの定義とは?

 

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文部科学省では、いじめの定義を次のように位置付けています。

 

「いじめとは、肉体的、精神的、立場的に自分より弱いものを、暴力や差別、いやがらせ(被害者が精神的な苦痛や不快感を感じるすべての行為)などによって一方的に苦しめること」

 

 

また、いじめ防止対策推進法第4条にて、学校に在籍する児童または生徒の間でのいじめは禁じられていて、第26条では、加害児童等に対する懲戒処分・出席停止についても次のように明記されています。

 

「市町村の教育委員会は、いじめを行った児童等の保護者に対して学校教育法第三十五条第一項(同法第四十九条において準用する場合を含む。)の規定に基づき当該児童等の出席停止を命ずる等、いじめを受けた児童等その他の児童等が安心して教育を受けられるようにするために必要な措置を速やかに講ずるものとする

 

つまり、子供を学校教育に通わせることは、親に与えられた義務ですが、

その一方で、学校内でいじめを行ない、他児童に苦痛を与えた児童の親には、児童の学校への出席を停止させることが義務になる場合もあるということです❕

 

実際の学校現場では、親も先生もいじめのジャッジがうやむやになりがちですが、

文部科学省により、実はいじめの定義はここまでハッキリと明記されているんですね(・∀・)

 

 

◆実際の現場でのいじめ問題の現状は?

 

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文部科学省により、しっかり明らかにされているいじめの定義ですが、

実際の現場の学校では、いじめ加害者側がきちんとした形で罰せられるケースは少なく、いじめのトラブルが起きた際に、不登校や理不尽な立ち位置になるのは結局は被害者側のパターンが未だに定着しています。

 

なぜ、このいじめ防止推進法が実際の現場でのいじめ対策になかなか活かされないのかと言うと、様々な要因が考えられますが、おおよそは以下の4点が要因として挙げられます。

 

1.いじめ被害者側が折れてしまうことが多い。

2.いじめが現場の学校にて「いじめである」と断定されにくい。

3.いじめ被害者側は親子共に優しく、我慢強い傾向があり、遠慮しがち。

4.「される側にも原因はある」という見方が親や先生世代も根強く残っている。

 

かつては、「大人しくて気弱だからいけないんだ」、「嫌なら言い返せばいいじゃないか」「言い返さないからなめられるんだ」などと、いじめを受ける側の児童の性格を指摘する傾向がかなり強くありました。

 

しかし、人間の性格とは本来皆違って当たり前であって、はつらつとした人もいれば、おっとりした人もいて当然なわけです。

 

それを、なぜか大人しい性格の人が非難され、いじめをすることがダメだということ以上に、大人しい性格の児童を強くさせようとする動きの方に力が注がれる教育を、私たち親や先生世代の大人は子供の頃から目の当たりにしてきてしまったのです。

 

これこそが、いじめ防止推進法によるいじめの定義の考え方がなかなか浸透せず、未だにいじめがなくなっていかない大きな要因と言って良いでしょう。

 

いじめをストップさせるには、私たち大人が受けてきた教育は間違っていたと認め、新しい考え方に方向転換させることが大前提になります。

 

 


 

◆いじめの根源って結局なんなのか?

 

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なぜいじめが起こるのか?そして、なぜいじめが絶対NGなのか?

 

いじめは、いじめる側といじめられる側の価値観の相違によって起こります。

 

 

例えば、AさんBさんに対して悪口を言ったと仮定します。

Aさん

⇒遊びでBさんに対して❛悪口❜を言っていると思っていて、このやり取りが楽しいと感じている。

Bさん

⇒悪口を言われることに対して、不快に思っているし、このやり取りが苦痛だと感じている。

 

さて、これはいじめでしょうか?

それともAさんが遊びだと思っているのだから、いじめではないのでしょうか?

 

正解は、いじめです。

 

なぜかと言うと、どんなにAさんが楽しんでいても、Bさんが精神的に苦痛に感じているので、文部科学省によるいじめの定義通りに判定すると、いじめと断定できます。

 

子供の世界では、悪い言葉を覚えたてで、何の悪気もなくただ使ってみたいという意識によって悪口を発してしまうことがよくあります。

 

そして、それを本当に遊びだと受け止める子もいるかもしれません。

その場合は、同じ悪口を言ったとしても遊びとして成立する可能性はありますが、どちらかが苦痛に感じた時点で、それは遊びとしても成立していないことになります。

 

※こういった遊びの延長には、悪口の言い合いごっこだったのが結局どちらも不快になっていき、本当の喧嘩や言い争いに発展していく傾向が高いので、

そもそも悪口の言い合いごっこを遊びとして認めるかどうかは、大人としては考えていく必要があります。

 

上の例のようなケースは、いじめの発端としてよくありがちなパターンです。

 

そもそも、例のAさんとBさんは、人間関係として成り立っていません。

 

楽しいし遊びとしてやりたいと思っているのはAさんだけ。Bさんが賛同していないのにも関わらず、自分は楽しいからと続けようとするのは、身勝手ではないですか。

 

Aさんは、もっとBさんの意向に耳を傾けるということを学ぶ必要があるでしょう。

 

恋愛関係でも、友人関係でも、どんな人間関係であっても、自分の意見を主張するのと同じくらい、相手の言い分を聞ことも大切なコミュニケーション力の1つです。

 

 

このAさんによる❛遊び❜がどんどん進化していくことで、犯罪とも言わざるを得ない陰湿ないじめに発展していくというケースがとても多いです。

 

人をからかったり、いじめるのが楽しいという思考になってしまっていることが、人のモラルとして危険信号だということです。

 

 

◆親世代がいじめがあって当たり前だと諦めている

 

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学校でのいじめに関する問題は、今に始まったことではありません。

 

親世代が小学生だった頃は、いじめの問題がメディアなどでも問題視されるようになった時代です。

 

親も学校内にて、いじめを経験したり目撃してきているため、学校でいじめが行われるのが当たり前のように鼻から納得し、そういうものだと諦めてしまっている傾向があります。

 

そして、そんな子ども時代の経験を基に、どうしたらいじめに遭わないように回避できるかということを、経験を通じて培ってきているのです。

 

そのいじめられないための知識を、自分が親になった時に我が子に伝授している親がどれだけ多いことでしょう。

 

しかし、勘違いしてはいけないのは、

いじめの問題の多くは、いじめの加害者側の心理的要因が大きく影響しています。

 

嫉妬や人の上に立ちたいという優越感から来る人を見下す気持ち、八つ当たりなどによっていじめは行われているという事実から、先生や親たち大人は、目を逸らしてはいけません。

 

少なくとも、「いじめられる側に原因がある」などと、加害者側の言動の責任を、被害者側に責任転嫁するようなことがあってはならないのです。

 

悪口などの暴言や暴力を他人に向けるということは、相手を傷つけ、信用を失う可能性があるということを、子どもたちは覚えていかなければなりませんし、

大人も放任せずに伝えていかなければなりません。

 

それこそが、「大人が子どもたちを育てていく」ということではないでしょうか。

 

皆さんは、いじめの問題をどのように考えますか?

最後まで読んでいただいてありがとうございました🙇

 

            TAZU💛

 

 


 

 

 

南青山の児童相談所設置に反対する大人こそ品がないという事実

こんばんは、TAZUです😊

 

しばらく更新が途絶えてしまいましたが、その間も、世の中では良いニュースも耳を覆いたくなるニュースもありました。

 

もちろん、私の周りでも、学校関係を中心に日々考えさせられることが日常のように起こっていました。

 

 

最近のニュースで私が特に関心を持ったニュースは、

 

南青山の児童相談所設置にめぐる住民による論争。

 

そして、その論争に関して著名人を筆頭に様々な意見が飛び交っていたことです。

 

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南青山の住民の反対意見を報道で知る限り、

「南青山のブランド価値が下がる」だの、

「南青山の煌びやかな人達を見て、児童相談所に来るような子供たちが余計に傷つくのではないか」だの、

初めて聞いた時は、それはまぁ開いた口が塞がらなかったですし、正直今でも塞がらないままです。( ;∀;)

 

 

私は、子供たちを守るのに絶対に必要とされる施設を、自分が住んでいる地域にできるからと言って、なぜ反対意見が言えるのか、不思議でならない。

 

国や地域は、そもそも個人の所有物ではない。

 

その人が住む家や土地が個人的な所有物であっても、それ以外のスペースは誰か一人の物でもない。

 

 

それを、いい大人が〝ブランド価値″なんて一丁前の言葉を並べて、

いかにもそれが正論であるかのように(実際に正論だと思っているのでしょうが)必死に抵抗している姿は、

まさに傲慢で、申し訳ないけれどただの駄々っ子のようにしか見えなかった。

 

そして、「ああ、この人たちは、今まで自分のことだけを考えて生きてきた人種の人たちなんだな。」と悟った。

 

 

そもそもこの反対意見を言っている人たちは、自分が反対意見を言って、仮にその意見が通って相談所がつくられなかったとして、それで本当に満足するのでしょうか?

 

もしそれで満足するのであれば、日本を豊かな国にしようと懸命に努力をしている人たちの足手まといでしかありません。


 

 

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私は、ブランド物に全くと言って良いほど執着がありません。

高かろうと安かろうと、自分が好きだと思う物には魅力を感じるからです。

 

そのため、一知識として青山=高級というイメージはありますが、

そこに住んでいる住民を敬うかどうかは、結局は一人ひとりの人格によるのだと思います。

 

 

だから、「南青山のブランド」というワードを耳にした時、

 

「守るべき南青山のブランドって何?」

「こいつら正気か???( ゚Д゚)」

 

と率直にそう思いました。

 

私の認識では、命や人権以上に守られるべきものはない

そう思ってきたので、

それはそれは度肝を抜かれました。

 

同じ日本でこんな風に考える大人が存在することに、心中穏やかにはいられません。

 

はっきり言って、こういう大人が日本の品格を下げているとしか私には思えてならないのです。

 

こういった人達は自分たちの意識の低さにまず気付くべきです。

 

自分勝手に生きて手にした幸せの裏では、誰かが犠牲になっている。

 

その現実に、目を逸らさず向き合ってほしい、そう思います。

 

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私たち大人が守るべきなのは、ブランドではありません。

子供たちです。

 

 

 

児童相談所が無事につくられ、1人でも多くの子供たちが豊かな人生を送れることを願っています

 

          TAZU🍀